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鶏頭かく語りき Archive

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とかげのしっぽ。

別に腰の据わらない性分というわけでもないのだけれど、これまでに10回以上、引越しをしている。
単純に年齢から計算してみると、3年ちょっとの周期で転居しているわけで、なんだか慌ただしい人生だなと思う。
もちろん子供の頃の転居は親の仕事の都合だったし、実際わたくしの父親は転勤が多かった。
だからなんとなく自分の人生に引越しが多いのはそのせいだと思っていたのだけれど、よくよく考えてみると親元を離れてからの移動の方がずっと多いのだ。
しかも仕事の都合というのでもない、理由の不明確な転居が大半を占めている。
もちろん引越しを思い立った時にはそれなりの明確な理由があったのだろうけれど、今になってみるとよく思い出せないし、もし思い出せたとしてもそれは転居をするにはあまりにも貧弱な、言い訳のような理由ばかりである。
あまりにも理由がはっきりしないので、時々、自分は何かから逃げようとしているんだろうか、と思うことがある。
適当な理由をつけて、何かから逃げだそうとしているんだろうかと。
でも、それが何なのかよくわからない。
あるいは、もしかしたらそれまでの自分の人生から逃れようとしているのかもしれないけれど、本当にそんな潜在的希求があるのだとしたら、とても空しい事である。
幸か不幸かわからないが、わたくしの人生は連綿としてわたくしの人生であり、転居を重ねたところでそれがリセットされるわけでも、帳消しになるわけでもない。そんなことはハダカデバネズミだって知っている。
でも、気が付くとまた転居をしているのだ。
不思議なことに。

まあ引越しの理由はさておき、これだけ引越しを重ねているんだから、家財ぐらいは身軽でコンパクトにまとまっていそうなものなのだけれど、残念ながらそうでもない。
そうでもない、というか、おそらく人一倍荷物の量が多いんじゃないかと思う。
もともとわたくしには収集癖というか、購入したものを手放せない傾向があって、書籍やCDや服や楽器、ダイビングやスノーボードや釣具やらの機材、趣味で集めた家具など、ほんとうに馬鹿みたいな量の荷物に取り囲まれて生活をしている。
そんな体たらくだから、もちろん引越しの度に途方に暮れることになる。
荷物を段ボールに詰めながら、「一体、わたくしは何をやっているんだろう」と深く思い悩む。
周囲にはまだ大量の物品が山積みになっていて、どうやっても引越し日なんかには間に合いそうもない。
普段生活をしている時には、ひとつひとつの収集物をとても気に入っているはずなのに、総体として眺めた「家財」には心からうんざりしてしまうのだ。
こうして個々の物品を総体として眺め、それをまた段ボールという別の単位にカテゴライズして分割するという作業を続けていると、物理的存在の持つ意味合いは希釈され、日常生活には存在しない奇妙に乾いた視線で物を眺めるようになる。
そして、目に付いたあれこれを、「君は分類不能だから、もう捨ててしまうよ」とか「君は単に過去の象徴物であって、それ自体は意味をなさない存在だから、今のわたくしには不要なのだよ」とか、いちいち理由を申し渡してはゴミ袋の中に押し込んで行く。
普段だったらとてもこんなことはできない。
ゴミ袋に押し込まれたそれらは、それまでわたくしの生活の一部であり、わたくしの記憶であり、わたくしの人生そのものであったりしたからだ。
それでも最初のうちは、一つ一つの収集物をゴミと判断するまでにいくばくかの呵責と喪失感を覚えたりするのだけれど、梱包作業も中盤を越えるとそれすらも麻痺して、わたくしは完全に乾き切った条件分岐関数となる。
ただ要と不要を的確に判断し、不要と判断されたものを無言でゴミ袋に押し込んで行く。
気がつくころには大量のゴミ袋が部屋の隅に山積し、引っ越しの準備も峠を越えている。

そうして、引越しの朝、これまでわたくしの生活の一部であったものたち、あるいはわたくし自身の一部であったものたちが袋に詰められて、まだ暗い路上のごみ捨て場に山積みされているのを眺めながら改めて思う。
「わたくしにはこんなにも失ってよいものがあったのだろうか」と。
そうして深くため息をつき、バイバイ、と手を振る。
かつて自分の一部だったものを残して、わたくしは生き続ける。

とかげがしっぽを残して走り出した後、ちらりとこちらを振り返る時も、きっとこんな気持ちなんじゃないかと思う。

Still Live

死亡フラグ、というものがある。
ご存知の方も多いと思うが、映画や小説、漫画、ゲームなどの中で使用される、「この人、死にまっせ」という予告、伏線、ドラマツルギーのことである。
有名なものとしては、
「もう大丈夫だよ。全部…全部終わったんだ」(B級ホラー映画)
「つまり、この中に犯人がいるってことじゃないか!危なくて一緒にいられるか!わしは部屋に戻るぞ!」(ホテル系推理物)
「貴様がジャック・バウアーか?」(24時間営業ドラマ)
などが挙げられる。
もちろん台詞を喋らなくても死亡フラグが立ってしまうことはままあって、例えば戦闘中にここは任せろ的な笑顔で親指を立てる、ホラー映画であるにもかかわらず女性といちゃつく、デューク東郷の背後に立つ、などは死亡確率が高い危険行為である。またハリウッド映画では、スクリーンにスティーブン・セガールが現れた時点で、登場人物の半数以上に死亡フラグを立てることが義務付けられている。
こうした死亡フラグの中でも最もクラッシックかつエレガントな例とされているのは、「俺、~が終わったら、彼女にプロポーズするんだ」という文句である。
~の部分にはもちろん「この戦い」とか「あの勝負」とか「ラーメン屋のアルバイトが腕を振るった、トラフグ中心のディナー」とかが入るのである。
で、この台詞を口にした登場人物は、大抵の場合、死ぬ。
なぜ死ぬのかというと、「ウソだろ…幸せになるはずだったあいつが…」的なシーンを作りやすいからであり、「この戦闘が終わったら、彼女にプロポーズするんだ」⇒「勝ちますた」⇒「結婚しよう」⇒「わーい!」みたいな展開を潔しとしない人たちが好んで用いるからである。
伏線というにはあまりにわかりやすい伏線ではあるが、そもそもそれ自体を目的として物語上に配されたイベントなので、見ている人も「なんだよ、見え見えじゃん」などと言わず、大いにこれを楽しむべきである。

で、話は突然個人的なことになるが、6月の初めぐらいにわたくしはあることを思いついた。
自室でひとり冷やし中華を食べ終わり、ティッシュで鼻をかんでいる時のことであった。
それはあまりにも唐突で非現実的な行為であるような気がしたけれど、実際に「そろそろ結婚でもしてみっか」と口に出してみると、それほど悪くないアイデアのように思えた。
わたくしはティッシュ(鼻かみ済み)を指先でもてあそびながら、「でもそれだけじゃねー、なんか盛り上がりに欠けるっつーかさー。ねー?」とテーブルの上のマトリョーシカに話しかけ、麦茶を一口飲んだ。
なんか、もうひとつ足りないような気がしたのである。
普通であれば、ここで気の利いたプロポーズの手法でも考え始めるのであるが、なぜかわたくしの思考はそちらへと向かわなかった。そして、プロポーズという言葉から想起せらるる一つの台詞、件の死亡フラグに心をとらわれてしまったのである。
で、様々なことを勘案したわたくしは、悪くないかもしれん、と思った。むしろやってみるべきなんじゃないか、と。
結婚するということは、一家の大黒柱になるということである。
大黒柱になろうという人間が、いちいち死亡フラグぐらいで死んでいてはいかんのではないか。
100個ぐらいの死亡フラグ、これをやすやすと退けて泰然自若、これこそ嫁をもらうに足る存在なのではないか。
わかりました。やりましょう、そういうことなら。
と、わたくしは膝を打って立ち上がった。
彼女とは一ヶ月後にタイ旅行に行くことになっている。プロポーズはそこですればいいとして、それまでに死亡フラグを立てまくったろ。林立させたろ。わたくしはその危機的状況をサヴァイブし、見事な大黒柱へと化身するのである。大魔神みたいに。プリキュアみたいに。
意を決して振り返ると、視線の先にはごみ箱。
これが第一の死亡フラグになることは、直観的に理解できた。
わたくしは手の中のティッシュペーパー(鼻かみ済み)を握りしめた。
そしておもむろに「このティッシュがごみ箱に入ったら、タイで彼女にプロポーズするんだ」とひとりごち、ゆっくりと手の中の白い塊を投擲した。
それは美しい弧を描いて宙を飛び、ごみ箱の外壁に当たって、かさりと地面に落ちた。
…予想外の展開であった。
死ぬとか死なないとか言う以前に、プロポーズできないことになってしまった。
だめじゃん。全然だめじゃん。
わたくしは無様に横たわったティッシュペーパーにすかさず駆け寄り、「今のウソ。練習」と呟いてからティッシュを取り上げ、再度席に戻ってそれを放り投げた。かさり。オン・ザ・床。
この後、ティッシュの回収と再投擲を繰り返すこと12回、やっとそれはあるべき場所に収まった。
危ない所であった。自分が不器用なことを忘れていた。もうちょっとでプロポーズをあきらめるところだった。
次からはもうちょっと慎重にやらねばならぬ。と考えながら、わたくしは額に浮き出た汗をぬぐった。
気がつけば窓から差し込む光はすでに斜陽。
部屋の外では、気の早い虫たちが夜の音で庭を満たし始めていた。

この日から、わたくしは不器用な自分でもプロポーズの可能性を除外されない程度にハードルを下げた死亡フラグを次々と立てて行った。
コンビニに寄っては「この店員がちゃんとお釣りをくれたら、タイでプロポーズするんだ」と念じ、「このカレーパンにカレーが入っていたら、タイでプロポーズするんだ」と誓った。
一度など、商談を終えて入った中華料理屋で天津飯をオーダーし、「ちゃんと注文のものが出てきたら…」などと思っていたら炒飯が出てきて焦ったけれど、直後におばちゃんが自主的に誤りを認めて事なきを得た。余っちゃったから炒飯も食べる?と訊かれたが、それは脂肪フラグである。
このようにして、一ヶ月間、わたくしが立てた死亡フラグは実に89にのぼる。
これが映画であれば、わたくしの死亡は確実である。そしてまた、これが映画であれば、だれも見る人はいないと思う。
でもこれで舞台は整った。
この一ヶ月間、激務に追われる、やたら蚊にさされる、ビールを飲みすぎるなどして死にかけたが、なんとか切り抜けてきたのだ。
後は死なずに求婚を終えればわたくしの勝ちである。
もはや死を恐れぬわたくしは婚約指輪を携えて彼女とともに海を渡り、南の島にたどり着き、求婚をした。
ついでに死亡フラグの話をしたら、彼女にものすごい怒られた。
もはやここまでか、と思ったが、命までは取られなかった。

そういうわけで、わたくしは今もこうして生きている。
もうすぐ戸籍に新しいメンバーが加わる。
とても素敵なことだと思う。
サンキュー。


RIMG1152.jpg
婚約指輪。
職人さんに頼んで、Leonard Kamhoutの指輪に石を入れてもらいました。

still_live.jpg
KEITH JARRETT/STILL LIVE

鶏頭はこう言った。

学生時代、フリードリヒ・ニーチェの後期代表作「Also sprach Zarathustra」を新潮文庫で読んだ。
だから頭にある邦訳タイトルは「ツァラトストラかく語りき」であって、いまだに岩波文庫の並ぶ書架で「ツァラトゥストラはこう言った」というタイトルを目にしたりすると非常に違和感を覚える。
というか、もうちょっとありていにいうと、かっこわる、と思う。
これはもう完全に好みの問題なので異論のある方もおられると思うけど、のっけから「ツァラトゥストラはこう言った」なんて調子で始められると、冒頭の有名な挑発的文句である「神は死んだ(Gott ist tot)」とかも「神さまは死んじゃった」みたいな感じで訳されてるんじゃないかと不安になる。
まあ翻訳物の哲学書は単純な論述にもわざわざ小難しい言葉を使って人をいらりとさせたりするので、これぐらいでちょうどよいのかもしれないけど。

書籍のタイトルでいえば、J・D・サリンジャーの「The Catcher in the Rye」は野崎孝訳で読んだので、読後にちょっと混乱した。
だってホールデンは(おそらくは自分と同じような深みに落ちてしまわないよう)子供たちを捕まえてあげたい、と言っているのであって、「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルでは主客が転倒してしまっている。
もちろんホールデン自体が純ながきんちょなので、本当に「捕まえて」欲しいのは自分自身の危うさである、という心の底の希求を汲み取った訳と考えられなくもないのだけれど、そういうのは作者がやるべき作業で、もしサリンジャーが必要と感じたならそうしていたはずだ。
英語と日本語ではタイトルに向く語感というものが違うのだろうけれど、いずれにせよ訳者が意味合いを変えてまで創意工夫をこらす部分ではないんじゃないかなあ。

まあ上のような作品に対しては個人的な思い入れが強い分、タイトルに対してセンシティブになってしまっているのかもしれないけど、タイトルの蹂躙って意味では映画や音楽の世界のほうがずっとひどい。

たとえば子供のころ父親に連れられて、シルヴェスター・スタローン主演の「コブラ」という刑事映画を見に行った時の話である。
本編「コブラ」の上映前、これに当てるような感じで公開予定のアーノルド・シュワルツェネッガー主演の刑事映画の予告編が流れた。
爆発シーン、カーチェイス、お決まりの派手な演出の後でスクリーンに映し出された邦訳タイトルは、「ゴリラ」(原題は「Raw Deal」)。
一瞬、映画館の中が静まり返り、そのあとで暗闇のあちらこちらから失笑が漏れた。
別にシュワルツェネッガーのファンではなかったけれど、子供心にもこれはひどすぎると思ったのを覚えている。
原題「Raw Deal」は直訳すると「不当な扱い」となるわけだけれど、この映画で一番不当な扱いを受けているのは、間違いなくタイトルである。

で、さらにひどいのが洋楽の邦題。
有名なところで行くと、
The Beatles「A HARD DAY'S NIGHT」⇒「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ! 」
とか、
AEROSMITH「Train Kept A Rollin'」⇒「ブギウギ列車夜行便」
とか、
Stray Cats「Rock This Town」⇒「ロック・タウンは恋の街」
とかね。
「担当者がかっこよくしよう(あるいはアルバムを売ろう)として頑張った結果、能力至らず失敗した」という感じがありありとうかがえて胸に痛すぎる。

あ、ついでに言うと、一言多い系というのも気になりますね。
Derek&The Dominos「Layla」⇒「愛しのレイラ」
とか、
Bon Jovi「Runaway」⇒「夜明けのランナウェイ」
とか、
Michael Jackson「Beat It」⇒「今夜はビート・イット」
とか。
ねえねえ、ほんとにその一言が必要かどうか、今夜はもう一度考えてみようよ。って、今や遅しのランナウェイ。

また一時期には、この日本的風潮を面白がってわざとふざけた邦題をつけたアルバムや曲があった。
代表的な例は、
Frank Zappa「THE MAN FROM UTOPIA」⇒「ハエ・ハエ・カ・カ・カ・ザッパ・パ」
CARCASS「Incarnated Solvent Abuse」⇒「硫酸どろどろ何でも溶かす」
などだけれど(CARCASSが代表的な例に上がってくるあたりは個人的な嗜好です)、ここまでぶっとんでいると、こちらも「あっそ」の一言ぐらいで軽く受け流せるので楽である。
(余談だけれど、ハエハエカカカは当時のキンチョールのCMのパロディだと思う。同じ五七調でいくならパが一つ足らないと思うんだけどね。あ、ザッパお得意の変拍子ってこと?)

などと思いつくままに変訳をあげつらって来たわけだけれど、上にあげた邦訳作品の大半は日本国内で結構な売り上げを上げているのである。
ロングランヒットとか爆発的セールスなんてのも少なくない。
ということは、もしかしたらわたくしの感覚が間違っているのだらうか。
出版社やレコード会社の担当者の策略こそが王道なのかもしれない。
そう考えると自信がなくなる。
このブログも先人の知恵をどんどん取り入れて、
「夜明けの高円寺は恋の町」
とか、
「鶏舎の中でつかまえて」
とか、
「ハエ!ハエ!ヤァ!は何でも溶かすゴリラ」
という感じに改名するべきなのかも知れない。

などと愚かしいことを考えながらスイカを食す夏の夜。のランナウェイ。
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